TingaTingaArt Official Shop (PopUp 3/20~銀座三越 グランドフロア)

変わらぬ魅力と変わりゆく想い〜私が歩んだ10年間〜

はじめまして。NjOO Africa(ジョーアフリカ)の代表、米田泉です。

私は、1980年生まれ、三重県出身。
現在は、タンザニアでビジネスしている日本人の夫と、7歳・5歳・1歳の3人の娘とタンザニアに住んでいます。

NjOOAfricaは、タンザニアの伝統絵画「ティンガティンガ」のオフィシャルショップで、アフリカ布を使った商品も取り扱っています。

NjOOAfricaは今年立ち上げたブランドですが、
それまで、私は2012年から2020年まで、AfricanHandsというブランドでアフリカビジネスをしてきました。
心機一転、新しくブランドを立ち上げ直したお話を、アフリカで経験したことを振り返りながら、気持ちを整理するつもりで書いてみようと思い立ちました。

 

(目次)
・ティンガティンガに出会うまでの私
・運命!ティンガティンガとの出会い
・がむしゃらに走り続けた9年間
・NjOO Africaで実現したい世界

 

 

=ティンガティンガに出会うまでの私 =

大昔流行った、顔黒、コギャル、アムラー世代に生きた私ですが、
学生時代、はじめて一人旅に東南アジアを訪れたことをきっかけに世界に興味を持ちました。

 

当時の語学力といえば、
シャワーを浴びたければ「アイム シャワー!」
トイレに行きたければ「アイム トイレット!」
いつ来たの?と聞かれれば「トゥモロー」
そんなレベル。
「未来から来たのか?」と、沢山の世界の人々を笑顔にしてきたと自負しています。

自分のヘアースタイルや最新のファッションにしか興味がなかった私にとって、当時、東南アジアでみるストリートチルドレンやスモーキーマウンテン、地雷で足を失った人たちの光景は私の心を大きく揺さぶりました。

帰国した私は、すぐさま、日焼けサロンを卒業し、メッシュヘアーとハイブランドのBAGを捨て、カラスに負けないほどの綺麗な黒髪に染め、謎にアジアンファッションに身を包みました。
英会話に通い、「社会貢献」の本を読み漁り、休日はボランティア活動に勤しみました。

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有給を使っては、海外を放浪し、いつかどこかの国のモノやコトを日本に繋げる仕事がしたい。そう思い世界中を駆けめぐりました。

しかし、いつしかインターネットも普及し、世界中をモニター越しで知ることができるようになり、情報が多い分、もうどこも見たことのある世界にしか見えなくなっていきました。
考えさせられる社会問題は、もうどこかの、私よりはるかに頭のいい誰かが解決しようと動いている。
諦めに似た感情に包まれながらも、それでもこんな私にできることって何かな?とわりとしつこく、思い続けていたら10年たっていました。


=運命!ティンガティンガとの出会い=

2011年。辿りついたのはアフリカの大地でした。

カラフルな布を纏い街を行き交う人々、
果物や野菜を入れたバスケットを器用に頭に乗せて赤土を歩く女性達、
山奥にしかいないと思っていたマサイ族は携帯片手にマウンテンバイクに乗っている。
想像通りだったことより、そうでなかったことの方が多かったけど、街も人も、村の景色も、どこを切り取っても、そこは彼らの生活なのに、でも私には「アート」に見え、心躍らされました。

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その後、「ティンガティンガ」と出会ったときは、「恋」に似た感情だったと思います。
6色の原色を使い、カラフルに描かれたペンキアート。
創始者は亡くなり、お弟子さん達が継承している伝統絵画で、アーティストの数、およそ100人。
皆、それぞれの想いをダイナミックにキャンバスに描いていました。

同じジャンル・同じマテリアルを使い・同じ技法なのに、100人のアーティストが描き上げる作品はどれも少しづつタッチが違う。
思い思いに描かれる作品にはそれぞれストーリーがあり、とってもユニーク。カラフルで、愛らしいキャラクターたちは、キャンバスの中で生きているようでした。
タンザニアにあるティンガティンガ村と呼ばれる、その工房では皆が学生のように机を並べて描いている。


「アート」で埋め尽くされた空間はまるで、夢の国。ドキドキとワクワク感が、私をとても幸せな気持ちにしてくれました。
「アート」ってこんなにも、ひとの気持ちを変えるのかぁ。圧倒され、心惹かれ、小さい子供のみたいにはしゃぎました。

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そういえば、街を歩いている時も、「貧困の大地」というイメージのアフリカとは裏腹に、街行く人たちもみんな、オシャレ。
また、原色に原色、柄に柄!を合わせるという斬新なセンス!
街も「アート」そのものだった。

このセンスと日本人女性の感性を合わせて、何かできないか?
それが社会貢献につながったら素敵やん!と。
難しい社会問題は、賢い方々に任せて、私は私のできることで、現地に根付いてやっていこう!
具体的なことはまだわからなかったけど、何かしたい!そう思いました。

どうしたらいい?何ができる?ウガンダのビクトリア湖に近い、田舎の村を訪れるとキャッキャと遊んでいる子供達が私の付けていたピアスを見て「ティンガティンガ!」って大喜びで覗き込みました。

 

きっと日本で同じシチュエーションになっても、日本の子供達は「ディズニー」は知っていても「ティンガティンガ」を知らない。
私は、「アフリカ」を「アート」を、絶対日本で広めたい!
「とりあえず絵を売ってみよう」
「アフリカ布で何か作ってみよう」
「ここで出会った感動を商品として日本に届けよう!それが私の使命やわ」と確信しました。

そして、学生時代の友人とティンガティンガとアフリカン雑貨を日本に広めるためAfricanhandsを立ち上げました。
彼女はウガンダ・ケニアで雑貨作り。私はタンザニアでアート担当。
私達のど素人が故の怒涛のビジネスが始まりました。

 

=がむしゃらに走りつづけた9年間=

「2年間で成果が出なかったら辞める」と家族を説得しました。
少ない資金を握りしめ、再び降り立ったタンザニアで私は、いろんな場面で困難にぶち当たりました。

そう “スワヒリ文化” 。

ドローカルの安宿に泊まり、「チェックアウトは何時」とスタッフに聞くと、「朝の4時」だという。
何度聞いても「4時」だと言われる。仕方がないので、荷物をまとめ4時にフロントに向かうと誰もいません。
警備の人に聞いてもスワヒリ語で何を言っているか全くわからない。
どうしようもないので、鍵だけ警備の人に渡して、まだ暗い誰もいない街を彷徨いました。
そのときは、まだ公共交通機関も走っていなかった。
その夜わかったことは、タンザニアにはスワヒリ時間というのが存在していて、時計の針はそのままに、時計の読み方が6時間違うのだそう。
「チェックアウトは4時」。これは「10時」を指す。
なんじゃそりゃ!笑

朝方、色々な食べ物をもったおばちゃん達が、道で食べ物を売り出したので、ドーナツみたいなパンみたいものを一つ買おうと「いくら?」と聞くと、言葉を発さず、一本指を立てるだけ。
最小紙幣の「1000sh=50円」かなと、それを差し出すとそのどでかいパンを10個も渡されました。
「おー。1個5円なん?10個もいらんけど」と思いながら、10個も売れて嬉しそうにしてるおばちゃんみたら返品できませんでした。
というよりスワヒリ語ができないので、なんて言えばいいか分からなかっただけだけど。笑

そんなことから始まった初日、システムもわからないまま、指刺されるまま、ローカルの乗合バスに乗り、あのティンガティンガアーティストがいる村に再訪が実現しました。
ただの熱すぎる女だった私は、100人いるアーティストの生活を私が守る!と、挑むも、オーダーした絵は全くもって違うものばかり。
そう、皆も英語ができない。理解しないまま、適当に絵を描いてきた。
旅でいる間や、街ではそれも楽しかったけど、仕事となると笑っていられない現実。
一旦、英語の話せる人を呼んで通訳してもらいました。
でも、また同じ結果だった。
日本語同士でも、デザインや感覚を伝えることは難しい。
言葉が違えばなおのこと、言葉の壁が大きくのしかかりました。
それでも、身振り手振り、ほぼジェスチャーで乗り越えた第一回目の買い付けは泣く泣くだったけど、無事完了。

帰国後、日本に販売されているスワヒリ語のテキスト全部買ったのは言うまでもなく、毎日スワヒリ語を勉強しました。
幸い、少ない資金で仕入れた絵も雑貨も三重県に構えた店舗ですぐに売れていきました。

3ヶ月後、訪れたタンザニアでは、毎朝いつもより2時間早く起きて勉強したスワヒリ語を駆使し、みんなとコミュニケーションをとりました。
ティンガティンガアーティストの描く絵はそのままだと、どうしても民芸品・お土産物レベル。
とっても素敵な絵なんやけど、なんだか「雑」。

まずは、100人のアーティストのことを知ること。
インタビューし、幾度となくお話し、得意なスタイルや各アーティストの生い立ちや性格を把握しました。
彼らにアドバイスするには、「自分も知らなければ!」と弟子入り、ティンガティンガアートを自ら描き、手順、材料をどう使うとどうなるか?
決められた色をどのように使うと、美しくなるか?一緒に研究しました。

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その後は、全てオーダー式にしオリジナルの絵を描いてもらい、より日本で売れるようにと、繊細に描くこと、特にモチーフとして使われるディテールをより繊細に、そして絶妙なカラーバランスであったり、筆の使い方、最初から最後まで手をぬかない等の精神的に的なことまで細かく寄り添いアドバイスしました。
そして、より多くのアーティストと一緒に成長できるよう、100人のアーティストにバランスよくオーダーすることを心がけました。

一番大切にしたことは、価格的にも買い叩くことはしないやり方を選んだこと。
その分、日本で通用しないクオリティなら、徹底して何度も描き直してもらいました。
そのうち、ダメ出ししなくても、渾身の力作を、各アーティストが自信に満ちた顔で持ってくるようになりました。
以前は、口うるさい私の要望を適当に交わし、投げ出そうとしていたアーティストが、こちらの要望以上の内容に仕上げてくれるようになりました。。
筆を動かす、最後の一本まで妥協せずに描いてくれるオリジナルの絵は確実に日本で通用するレベルになっていきました。

ヒット作は毎年生まれ、3万枚以上の原画を日本の方々にお届けしてきたと思います。

同時に、500種類に及ぶ雑貨類は、ウガンダ・ケニアでひとつひとつハンドメイドで製作してもらい、
こちらも毎度毎度細かい指示と、作り直しを繰り返し、日本に自信を持ってお届けできるブランドとして活動することができ、その頃、私自身、自分の居場所ができた気がして、天職だとさえ感じていました。

友人のいるウガンダまで、500Kg以上の絵を持って、長距離バスで、二つのボーダーを超え、40時間走ること数十回以上。

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現地の人しか乗らない大型オンボロバスは、私の愛車そのものでした。
長時間に渡るバスの中で、小さいゴキブリが私の上で寝たり、噛んだりは当たり前。
キリマンジャロが見える頃には、劇的に寒くなり、凍えるほどに。
60人の同乗者との夜間の野ションはお手のもの。
暗闇に光る白い私のお尻は輝いていたそうです。
「お前はお尻も白いのか?」と。


最初は商品をEMSで送っていましたが、エアカーゴになり、やがて、
20フィートから40フィートの海上コンテナーで送るようになっていきました。

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初めて三越のグランドフロアに商品が並んだ時は写真を撮りまくり、
現地のパートナー達に送り、遠隔でも共に、高揚感を、感動を味わいました。
その売上げは異例で、百貨店の役職の人たちが大騒ぎするほど。
額装された自分の絵に大喜びするアーティストたち、
もっと沢山注文してあげられる!と興奮する私。

銀座三越

そう、現地に根付いて活動を続けていると、築きあげることのできるものは百貨店に並ぶ商品だけではありません。
”人間関係”
信頼できる現地のパートナーが少しづつ少しづつ増えたこと。
納期を守ってくれるようになったこと。
どんどんこちらの依頼に対して真摯に答えてくれるようになったこと。
アーティストたちが、雑貨を作る女性達が、彫刻を掘る職人たちが、こだわりを持ち出したこと。
彼らの、「仕事」への姿勢がどんどん変わってくるのがわかりました。
それはそれは、ゆっくりゆっくり、ひとつづつ、ひとつづつ、でも確実に。

ひとつひとつが、私たちが作り上げるコトでした。

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アーティストをライブアートのために日本に招聘した後、アーティストの仕事への向き合い方が劇的に変わったことなども印象的でした。
日本で私の自宅に3ヶ月滞在し、百貨店でのPOPUPをこなしてくれたアーティスト。

 


いっぱい仕事もしてくれたけど、ビールでも飲んで、すぐ稼いだお金全部使ってしまうんやろうな〜。と思っていたら、
帰国した彼は、土地を買ったと、そして翌年には、その上に家が建っていました。
またその翌年には、家に電気が通い、またまたその翌年には、自宅離れにアトリエができました。
そして、年々、親戚やら友達の子供やら住人が増えていました笑
タンザニアらしくて微笑ましたかったです。

きちんと働き、計画性を持ってお金を使うことと貯めること、家族と生活を徐々に豊かにしていく喜びを得たようでした。

以前は、待ち合わせをしても3時間遅刻は当たり前。
「遅い!」と指摘すると「朝からサッカーしてて、めちゃくちゃリフレッシュできたよ。」と。シャワーもしてきたのがわかる石鹸の香り。
「シャワーまで浴びてきたんかい。」
なんてやりとりが嘘のようです。

百貨店でのライブアート、来日は、学びが多かったようです。
朝礼での、本日の予算、昨年度比何%など、売上管理が徹底されている様子。
お客様への対応の仕方をとことんトレーニングされている様子。
クレームに対して、即改善が行われる様子。
それがお客様への信頼につながっている様子。
来たばかりの頃は「お金持ちの国にやってこれた高揚感」だけだった彼は、ライブアートを経験し、取材を受けるたび、別人のようになっていました。

 

一方で、現地にいると、仕事がない、仕事をしない、お金がない、今日食べるものもない、薬に手を出す人、犯罪に手を染める人、今日病院にいけない人、色々な現実にも直面しました。その時できることを私なりに、考え、向き合ってきたと思います。
私が日本にいる間に、お金がなくて病院に行けず亡くなっていったアーティストも数人いました。
手助けしたつもりが裏切られたり、何度繰り返しても分かり合えない人もいたし、いいことばかりではなく、辛く悔しい思い、悩み、涙しことも少なくなかったですが、
最終的に、私がここで、彼らと解決できることは、してもらえる仕事があること、それに必要な訓練をすることだけでした。
現地の方々と一緒に成長してきた9年間だったと思います。

その間に、私は私で、ホームステイし現地の生活を体感し、スワヒリ語を学び、武蔵野美術大学へ行きアートを学び、個人で素材も用途も違う500種類を超える雑貨類の通関を覚え、営業を覚え、2013年百貨店ビジネスに参入しました。

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手作り、一点ものにこだわり、一つ一つの商品にまつわる作り手とのエピソードを店頭でお客様に話し、ファンは増え続け、毎年、商品に、私に、会いに来てくれるお客様に会える喜びがありました。

三重県を拠点に、北海道から福岡まで、数百キロの額装した絵をトラックを運転し運びました。
二人の娘を妊娠し、臨月を迎えた時も、一時的にふくよかになった胸とお腹の谷間に絵の額を挟み、搬入作業もこなしました。
疲れすぎた時は、裏手の廊下でプチプチを引いて仮眠をとって、百貨店従業員に怒られたことは一度や二度ではありません。

私はがむしゃらに働いたし、走り続けていまいた。

 

その間に、私も友人も、二度の出産を経験しました。
その頃の私たちは、幼い子供二人を、両親に預けての、アフリカ出張や国内の地方出張は、年間の3分の2ほどだったと思います。

一方で、当たり前のように仕事に夢中になっている私と夫との間には、いつの間にか溝ができていました。

そして離婚を決意。

そこに拍車をかけるようにやってきたコロナウィルス、緊急事態宣言。

オンラインショップもせず、店頭販売だけをしてきた私達におとずれた「販路を失う」という現実。

そして昨年、9年間、共に頑張ってきた友人も「子育てに専念したい。子供たちや家族がストレスを抱えている。コロナになって、売上が落ちている今がやめ時」だと去って行きました。

いつかそうなることは目に見えていたのに、正規で人を雇い事業を大きくしてこなかったツケが回ってきたなと思いました。
そう一人ぼっちです。

「行動力」と「突破力」はありましたが、経営能力に欠けていた、そしてそれに気付いてもいなかった。
そんな9年間でもありました。

原点に戻り、やりたいこと、本当に叶えたいことを考え直す時期が来たなと思いました。


=NjOO Africaが実現したい世界=

2021年。NjOO Africa(ジョーアフリカ)を立ち上げました。
NjOOとは、スワヒリ語で「こっちにおいで〜」という意味。
沢山の人たちが集まる!ブランドにしたい。そんな思いが込められています。

 

原点に戻り、
アフリカの才能とカルチャーを「アート」を通じて世界に広めたい!
AfricanHandsでできなかった課題をクリアしながら、仲間とともに事業を拡大したい。
当初、心に芽生えた「ディズニーレベル」に「ティンガティンガアート」の認知度をあげる!を再び目標に掲げました。

そして9年前と違う環境になった今、コロナ禍でも安定した仕事を、安定した収入を彼らとともに生み出すこと。
これも大きな目標になりました。

ウガンダでのモノづくりを撤退し、タンザニアで始まった小物作りは、失敗続きです。
プロのテーラーでもない、職もない、女性達は、ハサミを持って布を真っ直ぐ切ることもできませんでした。

 「それくらいできるやろ?」ができないんです。

きっちり長さを測ることもまともにできません。ミシンに辿りつくことはキリマンジャロ登頂より難しい!と感じました。
そんな彼女たちも私も根気よく、練習を繰り返し、何ヶ月もかかって、やっと商品と言えるものを作れるようになってきました。
当初、雨傘で得た利益の5%を使って、ここに設備投資するつもりでしたが、結局、20%を投資することに決めました。
クッションカバー、エコバックが作れるようになり、ミシンも増え、今回は夏用B A Gに挑戦しました。

 


また新しい物語の始まりです。

 

数年前、ティンガティンガアートで雨傘を作ったことがありました。
その時、ティンガティンガアーティストの彼はコピーライトの報酬で3年間、安定した生活を送ることができました。
その3年間は、経済的余裕から、心にも時間にも余裕が生まれ、今まで以上にいい作品を生むことに成功し、
彼の原画をもそれまでの3倍の売り上げを作りました。
結果、彼は、その功績から、人間としてもひとまわりもふたまわりも大きく成長し、大きな喜びでした。

NjOOAfricaの現地パートナーは100人を超えます。

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彼、彼女たちが望んでいることは
「安定した収入、そして成長」

私がしなきゃいけないことは
⚫︎コロナ禍でも乗り越えられる商品作りを提案すること
⚫︎年間通して、安心してできる仕事があること
⚫︎その生活の安定の上に、いいものを生み出す時間を捻出してあげること
⚫︎生み出されたデザインを使って、こだわりある素材で環境に寄与できる商品を作ること

「アフリカンアート」のポテンシャルを解放し、人々の生活に浸透させるために、ティンガティンガアーティストをプロダクトデザイナーに育てる。

ティンガティンガアーティストたちが、商品デザインができるようになれば、きっと、多くの人の目に触れる機会も増える。

絵画というとハードルが高く感じるかもしれません。
しかし、それが、商品となり、日常に使えるものになればどうだろう?

その日常から、アートへの興味にも繋がるかもしれない。可能性が広がる!

決して、一点ものにこだわりを捨てたわけではありません。
一点ものも引き続き、作り続けています。

でも、
一点ものでないもので、違う可能性が広がるのなら試してみよう。

商品デザインができるようになれば、汎用性も広がります。
そこで安定した収入を得れることは、彼らの心の安定にも繋がり、より良いものが生み出せると信じています。

アートにも、ひとつひとつ物語が存在します。
描き手にも、それに関わる人たちにもです。

あー。こんなに素敵なアートなのに日本では広く知られていない現実。
原画を売り続け、語り続けたけれど、「ディズニーレベル」にはほど遠い。まだまだ夢は到底叶わない。

今、このままだとティンガティンガアートの後継者は確実にいなくなります。
コロナ禍で原画の売り上げが減り、農業やほかの仕事を始めたアーティストも少なくありません。

私は、私の環境の中で、私にできる最善を試したい。

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NjOOAfricaになって、また色んな失敗を私は繰り返すと思います。
今日言ったことを明日反省するかもしれません。
でも、この大地で出会った可能性を、色んな角度から仲間達と広めてみたい。

「変わらない魅力と、変わりゆく想い。」

重ねていく“しあわせのカタチ”の中で「何に心動かされるか」を大切にしたい。

想いのないブランドなんてない。
お客様の心に響くものを届けたい気持ちは変わりません。

できれば、NjOOAfricaオリジナルとしてエレガントに、モダンにティンガティンガをアレンジする、
そんなことに、もっともっと挑戦したいと思っています。

最近、嬉しいことにNjOOAfricaにも、思いを共有できる新しい仲間が増えました。日本側を任せられる頼れる仲間達の存在に支えられています。

プライベートでも、理解のある旦那様と昨年再婚し、まさかのタンザニアに住める環境になりました。

失敗したら、また新しい道を模索すればいい。
落ち込むことも沢山あったけど、いつも「アート」が元気づけてくれました。

アフリカのアートが当たり前に日本で楽しまれる日が来るように。
今後、多くのデザインの商品が生み出される日が来るように。

そんな想いと共に、私たちは今日もNjOO Africaと一緒に進み続けたいと思います。

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